日々徒然よもやまばなし

私の勝手な意見を毒舌に書いているので、気分が悪くなるかもしれないです。辛口が嫌いな方は読まない事をお勧め致します。無断転載禁止。リンク禁止。

歌番組を観て居た

歌番組には近藤真彦が威張った態度で出て居ましたね。

(たのきんトリオ)は確かに、ジャニーズ事務所を飛躍させる活躍をしました。

近藤真彦の歌も私は好きです。

個人的には(少年隊)の方が私は好きです。

しかし、ジャニーズ事務所がテレビ局に顔をきかせる様になったり、

仕事がバンバン、ジャニーズ事務所に入る様になったのは(スマップ)の

おかげだと思います。

老若男女の人気たるものも

含めて、あらゆる分野で活躍したグループの先駆けでした。

解散のきっかけを作ったのはみんなも知ってる通り、あの歌手です。

オノヨ-コと比べる人ではないですが、でも、役割は一緒でした。

残念な事に、一人が

結婚するとこうなるものです。

グループはバラバラなる事が多いです。上手くいってるグループもある様ですが。

若いって凄いな

私がまだ、10代だった頃、

他所で働きたかった、それも舞妓さんになりたかった。

又々片道のお金だけを持って、妹まで引き連れて行っちゃた(妹は置いて行くべきだった)

でも、京都に着いたらホテルの事を全く考えてもいずに、馬鹿な私。

引っ越した妹の友達の家にその友達も居候の身なのに、

その子に一泊させてもらう為、

妹に着いて来てもらった。

私は家出のつもりでなくて、就職したら、家に今の住所を親には教えるつもりだったのに、若さは怖い。

娘二人が急に居なくなった父は慌てて、私達を探したりしたみたい。

その日の内に妹の友達が居候して居た家に母から電話があった。

父が私達を探してくれて助かった。

私達はその家を追い出されそうだったし。

その友達のお父さんは父に雇われて居る男。父は割り出したり、訊き出したり、本当に父には感謝しかない。

父は私達が長崎に帰るお金を速達で三万円送って来てくれた。

翌日は1日観光して旅館に泊まって、長崎に帰ったよ。

父親には子供想いの人だったし、頭も良かったから、一度も怒られた事もないし、叩かれた事ない。

こんな事をして帰っても怒られもしなかった。

優しい父です。

料理も教えてくれたり、顔をを合わせると(早く結婚しろよ)と心配もしてくれた。

母は反対に(結婚は遅くでいいとか、陣痛は痛いよ)とか。

マイナスな事ばかり云って。母は料理も下手です。

字も読めず書けずの本嫌い。でも、両親の子供想いは共通、

母は母性本能はあるみたいだ。

若いって無謀だ

母は天然なのと無責任な性格をして居る。中ニの私が(長崎に行く)と言っても、普通の親は行かせないです。それも片道分のお金と妹と二人だけで。反対もしなかった。

私は京都駅に行くと駅員にしつこく長崎行きのの道順を訊いて、博多で長崎行きに乗り換えて、無事に長崎駅に着いた。途端、余りの田舎ぶりに帰りたくなった。でも、帰りのお金もない。

覚えてて居た祖母の家に小学生の自分に何度も行った祖母の家に行くバスの乗り道を覚えて居たので、祖母の家に着いた。1日で京都に帰りたくなった。子供って無茶するなあと思ったのは、帰りの運賃やらない、泊まる所などを全然考えてもない行動をする事だ。

田舎の一週間は長かった。京都に比べて、長崎市は田舎過ぎるのと活気が全くなかったのだ。黙って父に行ってしまった長崎なのに、子供想いの父は帰りの運賃代をちゃんと送って来た。

ブルートレインに乗って昼の新大阪駅に父達は迎えに来てくれた。電車に乗って京都まで帰った。

二度と長崎市に帰るもののかと私は心に誓いました。

それが一年後、帰る事に。長崎市に帰るのはすごく嫌だった。絶対に、転校したくなかった。初恋の人と別れたくなかったから。京都で過ごした期間が一番長い。修学旅行も京都時代です。

恩人のお姉さん

私がまだ、三歳の時の話しです。母方の祖母の家に行ったら、

祖母と母は私に(迷子になったら、婆ちゃん家のTel番号と婆ちゃんの名前を云うんだよ)と三歳の私にしつこく、覚えさせた。

祖母達には感謝する。ある日、母の妹二人共にまだ10代と映画館に映画を観に行く事になった。

当時はまだ映画館のトイレは外にあった。私は叔母達にトイレまで連れて行かれたが、トイレの外に出たら叔母達は居ない。

私はトボトボと下の道に出てしまって。車がバンバン通ってる。私は歩行道をトボトボ歩いて居たら、若いお姉さんから声を掛けられた。

(どうしたの?迷子なの?)そのお姉さんは近くの交番に連れて行ってくれた。お姉さんとおまわりさんはオロオロしてる。

おまわりさんが三歳の小さい私に名前やら住所を訊いてくる。私は覚えたての祖母の名前と住所を教えた。おまわりさんとお姉さんは胸をホッと撫で下ろした様だった。

早速、祖母の家におまわりさんはTelを掛けた。私は無事に祖母の家に帰れた。そのお姉さんが私を交番に連れて行ってくれなかったら、私は今頃はどっかの施設に育って居た。お姉さんは恩人です。

怖かった迷子に

私にとって転校は
嫌だったのは、生まれ育った土地の幼稚園と小学校と家はテリトリーで、6歳ながら、道をによく覚えてたし、学校から家まで迷子にならず帰って居た。
でも、小六での大阪のk市への転校は私にはきつかった。大阪じたい初めての土地であり、12歳の私はk市の土地勘は0であった。
中学に行くまで片道が徒歩で20分かかった。家から学校までの道は仕方なく覚えた。目印を2つ覚えて家に帰って居た。〇〇◯事務所と緑のドアがあるスナックである。
私は中学時代は虐められっ子で、たまに、三人の子達から映画を観たり、隣の市のH市に行く遊びのお誘いやらがあった。
私が迷子になりそうになった、その日は、(自転車の乗り方を教わる奴)でした。友達の家に遊びに三人と行った。
友達の家で三人と[バイバイ]と別れたものの自分の家の帰り道が分からない。慌てて友達の家まで引き返そうとしたら、
その子の顔は頭に浮かんで来るものの苗字が思い出せなかった。家も同じ様な家々文化住宅が並んで居て、丸っ切り私は友達の家が分からないのと、
友達の家で別れた三人を探してもその子達が居ない。
私は三人を探すのを諦めた。私は心に誓った[日が暮れない内に家に帰れないと、
迷子に絶対になる。夜になると家には帰れない。悪い人間にも誘拐される)と。
私は電話代をを持ってなくて、家にかけようにも無理でした。途方に暮れた。いよいよ私の苦労が始まったのと恐怖が押し寄せて来た。
私は取り敢えず、後ろの道に下がらずに道は上にまっすぐ歩こうと決めた。でも、私の地元と違って、k市は道が広く、家が固まってるか、家が全くない道もあったので、心で(どうしよう)と思った。
誰も歩いて居ないし。時計も持ってなくて。道をウロウロ曲がったり、まっすぐ行ったりした。大阪に初めて来た時に、
新大阪空港からk市に車で来る時に見た、高速沿いのビルに寿司屋があるのを思い出した。(そうだ、その寿司屋を探せばいいのだ)と私は気づいた。
でもその寿司屋が見つからなかったら私は一生帰れないと又々恐怖感が押し寄せて来た。何時間歩いたか、何時間その寿司屋を探したのだろうか。
兎に角、歩いて居たら高速道が見えた。向かい側のビルに見覚えある寿司屋を発見した。その時の嬉しさといったらなかった。
これで家に帰れる道筋が見えた様に思えた。案の定、その寿司屋の側の裏の道に入り、暫く歩いたら、見覚えある緑の色のドアのスナックが角にあった。
私は安堵した。(私はこれで家に帰れる) 
家に辿り着いた時にはすっかり、日が暮れて居た。

解るような!

清水富美加さんが撮影中の映画を途中で投げ出して、

ご両親が信仰して居た[幸福の科学]に入信をしたことは、

びっくりしました。

自分が映画の作品を選べもさず、

会社が持って来た、作品に出させられた上に、給料が五万円しか貰えなかったとかで、

酷いなあ~という印象しか、私にはありません。

今時のOLの給料より給料が凄く安く、そして、自分がやりたくない作品に出させられたり。誰だって辞めたくなります。